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若松忠臣蔵とは

若松 「夢っ!」「元気!」

昭和六十二年十二月、恵比須神社に縁もゆかりもないけれど、若松で赤穂浪士が

討ち入りました。

会社社長や、病院の事務局長、郵便局長などなど。

陣羽織にはかまの「討ち入り装束」で固めた四十七士の顔ぶれは多士済々。

吉良上野介の首を打ち取り、若松忠臣蔵の男たちの勝ちどきが響き渡りました。

若松で討ち入りの謀議が練られたは、日本経済がバブル景気にかげりが見えてきた時代。

若松は石炭の積み出し港として栄華を極めた面影は、すっかり影を潜め、

沈み込んでいました。

その頃、「金鍋」で四十七士の名前と家紋が入った会津塗の膳を見つけました。 

大正から昭和の初めにかけて若松では、毎晩のようにお大尽遊びを繰り

広げられていたことが判明しました。宴席を盛り上げるために、金鍋が大枚をはたいて

作ったのがこの膳。

 

四十七士にくわえ浅野内匠頭らを加えた五十組。 今、同じものを作れば、

一千万円は下らない名品。

当時、名前入りの陣羽織を着て、雪の代わりに小麦粉をまいて「忠臣蔵」遊びに

興じていたそうです。 

 

それを知った現代の男衆五十人が、手を揚げ、不況にあえいでいた若松を

何とかしようと商売繁盛を願う参拝客でにぎあう恵比須神社の舞台で毎年、

「仮名手本忠臣蔵」のパフォーマンスを繰り広げてきたのです。

そして大石内蔵助こと若松区長が参拝客を前に誓詞を読み上げます。

 

「若松石炭景気を目指し、見事本懐を遂げるまで 

                   日々、努力、精進することを誓います。」

 

 これからも「若松忠臣蔵」若松に 「夢っ!」「元気!」を合言葉に

地域の活性化を祈り、勝鬨を上げてまいります。暖かく応援いただければ幸いです。

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